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決め手とは一体?

ども。
また急にブログを書いてしまう位の忙しさです。

今回思ったことは「人が納得する理由(きっかけ)」について。
あっ、んで、先にお断りですが、今回はいつもよりも(悪い意味で)気が乗っているので、こっから下はバリバリの書き言葉(常体のレポートみたいな語調)になりますんで。
もはや書く目的が精神衛生のためになっていますからね、ボクの落ち着く文体ということで。



 自分も含めて人は日々色んなことを決定しなければならない状況に遭遇している。
 この決定について、多くの人は主体的判断の結果として表現していることにしている場合が多い。それは、実際に決定が下されるまでの過程を大幅に無視する形でかもしれない。換言すれば、決定は主体的でなければならないと思っていたり、当然主体的であると思い込んでいたりする可能性が大きいということもできるだろう。
 決定には様々な段階が含まれ、「昼食に食べるもの」から「選挙の投票先」まであらゆる行動を決定することが求められる。この決定の対象者が自分(主体)のみであるのか相手(客体)も巻き込むのか、決定の対象時期が短期間なのか長期間なのかによって、その決定に係る要素の数は大きく変わるだろうし、それがいわゆる「悩みのタネ」の数だろう。
 悩みのタネを解決することで決定が導かれるが、実際には完全な解決に至る前のどこかの段階で妥協することが多いだろう。それは、現実的に完全な解決をすることが無謀であることを示している。完全性を評価するのは結果論にならざるを得ないため、必然的に妥協を迫られるのである。
 それでは「いかに決定するか」は「いかに妥協するか」と同義であることになる。そして、この妥協こそが人の決定の曖昧さを生んでいると思うのだ。
 たとえば、ある決定をするときに、それを決定することによってある目的は達せられるが、一方では意に反した結果を招いてしまうというジレンマを抱えているとする。この決定は他者も関わり長期的に影響を及ぼすような悩みのタネの塊だ。この問題を妥協すべく、決定者は考えられる手段をすべて尽くして理由を探しはじめるはずだ。このときの理由として頻繁に耳にするフレーズは「十分な時間を費やし…」「議論を重ねた結果…」「先例を参考にして…」等々だ。
 こうした理由に合理的根拠が含まれている割合は極めて低い。なぜならば、因果関係を前提とした立論ではなく、結果を導くことが目的化した際の手段としての後付けの理由だからである。妥協するために理由を探すため、理由に求められる条件は合理性ではなく、感覚的な納得をもたらせることである。決定者は既に合理的な理由を伴う完全な決定を諦めているために、感覚的に悪くなさそうというポイントを見つけることに作業を移行しているのだ。
 感覚であるから、コントロールしているのは論理や規則ではなく、倫理や感情ということになる。こうした部分で判断することが悪いわけではない。毎度の決定が冷酷かつ非情なものになっても合理性を持つ必要があるとは思わないし、おそらく結果論としては完全性を評価されえない決定になってしまうだろう。
 しかし、最も面白い(もしくは怖い)のは、こうしたコントロールしている部分に関して、多くの決定者は決定段階で無意識だということではないか。つまり、通る回路は違えど結果として得られるもの(感じるもの)というのは「納得」であるから、感覚的な判断なのか論理的な判断なのかがごちゃ混ぜになってしまう危険性を多分に含んでいるのだ。もしも感覚的に妥協した決定を合理的決定として捉えた場合、決定者はその決定に強い信頼を持っているだろうし、容易く変更や修正を施すことはないだろう。こうしてその決定は頑固なものになり、いつしか決定者を支配してしまう。
 いつでも自らの決定を見直すためには決定と同時に、どこかで、その決定をしたのは誰なのか、そしてその決定は必ずしも合理的なものとは限らないことをしっかりと刻んでおくことが必要だ。そうしなければ、日々の決定や妥協は、将来の自分を束縛して苦しめることになってしまいかねない。



…なんか、この文章30分も使わずに書いてるんですけど、どういう感情で書いてるんですかねw
まぁ、これでストレスは消されるので良いのでしょう。

では、また。







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